1996年の里親記事へ  1995年の里親記事


1995/12/04 西日本新聞

「くまごろう旅日記」本村義雄<48>北九州−連載
朝刊 18頁 0版18面2段 (全1519字)

 ◇「ゴンギツネの里」◇新美南吉の生家を訪ねて
 愛知県知多半島の中間点に位置する半田市に入った時は午後四時半だった。
 すぐに市役所の児童課へ公演の折衝に出かけると、退庁時の多忙な中を山本弘課長が丁寧に応対されて「過密な日程になりますが、明日一日で五つの市立保育園を巡回し てください」と快く各園へも連絡してくださった。
 翌朝九時から東保育園、白山保育園、同胞保育園、清城保育園、岩滑保育園の順に巡演して行った。
 次の保育園の車を玄関前に待機させて、終演すると大急ぎで用具を積み込んで走るといった慌ただしさだったが、得難い勉強の機会に恵まれた一日でもあった。
 一つは、白山保育園が六年間実践してきた「縦割り保育の成果」を聞けたことである。三歳児から六歳児までを合同で保育する方式は「年長児が年少児の世話をよくする、泣く 子の面倒も見る、遊び方を教える、食事の世話もするなど効果は大です」と、廃品回収でそろえた三千冊の本棚の前で、浅井知世主任が自信満々の表情で語ってくれた。
 岩滑保育園の公演が終わると、池原安子園長の案内で童話作家・新美南吉(大正二年〜昭和十八年)の生家と里親の家を見学した。
 かやぶき平家建ての里親宅はそのままの姿で保存され、裏の土蔵は有志の手で整備されて私設の資料館になっていた。閉館時間はとっくに過ぎていたが、管理人が快く扉を 開けてくださった。
 館内には南吉が好んで投稿した児童文学雑誌『赤い鳥』や少年時代の写真・作品などが展示されていた。
 家の近くに広がる田園とそれらを囲む小さな丘の連なりを眺めていると、南吉代表作の一つ「ごん狐(ギツネ)」の物語りが頭の中を駆け巡っていった。
 村の若者「兵十」が苦心の末に捕らえたウナギをいたずら狐の「ごん」は一匹残らず川に投げ込んで逃げた。そのウナギは病の床についている老母に食べさせようと兵十が必 死の思いで捕まえたウナギだったとごんが知ったのは、丘の下の道を進む兵十の老母の葬式の行列を見た時だった。
 互いに独りぼっちになったごんと兵十。
 ごんはわびのつもりでこっそりと兵十に奉仕するが、それに気がつかなかった兵十に鉄砲で撃たれる―。
 という作品の粗筋をたどりながら「南吉は、あそこに見える丘の上にごんを座らせ、あの下の小道に兵十の老母の葬式を設定したのだろうか」と思わせるような庭先と小道であ った。
 池原園長が「南吉はほとんど無名のままに三十歳そこそこの若さで亡くなり、多くの遺稿が友人たちの手で発表されてやっと人々に知られるようになりました。見方によっては 南吉の作品は、人のために生きることの尊さを子供たちに伝えたいと願った遺書だったとも言えそうです」と熱っぽく語ったことが印象的だった。
 半田市は市制五十周年記念事業として「生家復元工事」を進めていた。
 「近く完成します。ぜひ見学にお出でなさい」と隣家の若奥さんに勧められた。
 文 本村義雄、絵 本村淑子

西日本新聞社


1995/10/27 朝日新聞

里親・里子体験発表と子育て講演会(くらしのインデックス)
朝刊 21頁 第1家庭 写図無 (全158字)

 31日午後1時半−4時半、東京・新宿の都議会議事堂1F都民ホール(JR・地 下鉄新宿駅)。「子どもを取りまく状況とこれからの子育て」と題して、東洋大学の 一番ケ瀬康子教授が講演。都の養育家庭制度により里親・里子の関係を築いている親 子の体験発表も。無料。問い合わせは都福祉局子ども家庭部育成課03−5320− 4122へ。

朝日新聞社


1995/05/31 西日本新聞

「帰る家もなくて…」、福岡育児院体罰事件
朝刊 27頁 19版27面5段 (全1116字)

 福岡市東区の養護施設「福岡育児院」で三十日、明らかになった体罰事件は”閉ざされた小さな社会”で、子供たちが指導を名目に暴力で押さえ付けられている実態をあぶり 出した。「どんなにつらい体罰を受けても、ほかに帰る家がなく我慢するしかなかった」という女子生徒。育児院の特質が犯罪ともいえる行為を長期にわたって覆い隠し、エスカレ ートさせていた。【一面参照】
 「体罰で受けた傷を、布団の中で涙を流しながら冷やした。我慢するだけでつらかった」「トイレの中だけが安心できた」。体罰を受けた生徒らは、施設の中で受けた体と心の痛 みを語った。
 見かねて体罰を止めようとした職員は、最終的に施設を辞めざるを得ない状況に追い込まれ、生徒たちの痛みを理解する職員はほとんどいなくなった。福岡市も昨年、内部告 発を受けて調査したが、何もつかめず形だけに終わった。生徒たちはひたすら耐え続けた。
 体罰を行った指導者の一人は「何度口で言っても聞かないので、つい手が出た。間違ったやり方だとは思わない」と言い切る。非行の事実はあったとしても、ハンマーやバット まで使って長期間繰り返される体罰は「指導」の域をはるかに超えていた。
 閉そく状況を打ち破るきっかけになったのが「子どもの権利に関する条約」をテーマに昨年夏、北九州市で開かれた養護施設入所者の「全国高校生交流会」。参加した同育児 院の生徒たちは、全国の施設入所者から報告される体罰の多さに驚く一方で「自分たちが受けている指導は明らかにおかしいと思った」。
 交流会後、生徒たちは体罰をなくすために立ち上がろうと決意。以後、入所中の仲間に訴え、人権について真剣に考え出した。同時に外部にも実態を分かってもらう努力を始め ていた。
 子供の権利に詳しい福岡県弁護士会の八尋八郎弁護士は「養育能力のある親がいない子供は、欧米では施設への入所は管理する側とされる側との関係を生み、体罰は当 然起こり得るとして”里親制度”を取り入れ、一般家庭と同じ親子関係の中で教育している。今回の体罰問題は日本の福祉行政のぜい弱さを象徴している」と指摘している。
    ×      ×
 ●関係者が証言した主な体罰事件=表、略
    ×      ×
 ▼写真説明/指導員らによる日常的な体罰が明るみに出た福岡育児院=福岡市東区

西日本新聞社


1995/05/21 朝日新聞

母親見つからず、乳児院に移る 横浜で置き去りの女児 /神奈川
朝刊 25頁 神奈川版 写図無 (全355字)

 横浜市中区元町の産婦人科病院で十七日に母親に置き去りにされた赤ちゃんが、二 十日、病院から同市内の乳児院に移された。児童福祉法に基づく処置で、家族が名乗 り出なければ、赤ちゃんは乳児院で育てられる。
 母親は病院では「柏木理沙(二六)」と名乗り、「佐賀県東松浦郡に住んでいたが、 半年前にいなくなった夫を捜しに、十六日に横浜に来た」などと話していたという。 しかし、加賀町署が佐賀県警に問い合わせたところ、該当者はいなかった。母親は失 そう当時、青いブラウスにジャンパースカート、白地に茶色のしま模様の靴下をはい て、茶色のバッグを持っていた。身長は約一五〇センチでショートカット。
 赤ちゃんは元気で、二十日午前、市南部児童相談所の職員が引き取り、乳児院に運 んだ。家族が名乗り出ない場合、ここで育てて里親を捜すことになる。

朝日新聞社


1995/05/18 朝日新聞

孤児たちの戦後 「希望の家」から:下(ぷれいばっく) 【西部】
朝刊 23頁 福岡 写図有 (全2086字)

 「希望の家」があった山口県新南陽市の仙島に、小さな船着き場がある。「日米友 情の波止場」。一九五七年、慰問に訪れた米軍岩国基地の隊員と施設の子供たちが力 を合わせて建設した。子供たちはここから毎日、船で十分足らずの対岸の学校へ通っ た。

 《帰郷》
 波止場にはいま、中学時代を希望の家で過ごした原功(四六)の小型船・有朋丸が つながれている。東京で働いていたが、十年前にUターンした。
 希望の家は閉鎖され、島は無人になっていた。施設の跡地に二年余りかけ、手づく りで家を建てた。中古船を買い、かつて施設の子供たちが通学した船と同じ名をつけ た。趣味がこうじた注文家具の製作や船の修理を請け負いながら、ひとりで暮らす。
 原は四八年、山口県中部の徳地町で生まれた。三歳で父親が死に、子連れで再婚し た母親も七歳の時に死亡。親類や里親先を転々とした。小学校のころ、里親が貧しく て、ズボンの下にパンツをはかずに学校に行っていた。健康診断がある日は休んだ。 徐々に学校から足が遠のいた。

 《愛情》
 希望の家に来たのは中学一年の五月ごろ。子供たちは園長夫妻を「おじさん、おば さん」と呼んでいた。まるで大きな家族のようだな、と思った。
 朝六時ごろ起床。みんなで朝食をとり、小学生から高校生まで二、三十人がすしづ めの小型船に乗って学校に向かう。夕方、食事を知らせる鐘の音が島に鳴り響く。海 や山で遊んでいた子供たちが、それぞれに食堂へ集まってくる。
 「日本はもはや戦後ではない」と言われた時代だったが、施設の食糧事情は豊かと はいえなかった。自給用の農作業を子供たちも手伝った。
 夏場、学校をサボりたいときは、途中で船からわざと海へ落ち、泳いで島に戻った。 施設の仲間と昼までしか授業を受けずに抜け出し、帰ることもしょっちゅうだった。
 静かな瀬戸内海は、二十分ほどで泳ぎ切れた。「給食を食べに通っているようなと ころもあったね」。そんな原を、園長夫妻は愛情深く見守ってくれた。

 《慰問》
 希望の家には、月一回は慰問があった。婦人会、学生サークル……。さまざまな団 体が、お土産を持って訪れた。
 その中に米軍岩国基地の隊員たちがいた。彼らは寝袋やテント持参で泊まり込み、 施設の整備などを手伝った。クリスマスには基地のパーティーへ子供たちを招いた。
 原にとって、日本人の慰問は、来てあげた、という印象が強かった。「自分の幸福 を確かめるため、という部分が子供ごころに見え隠れした」。米兵にはそれが感じら れなかった、と振り返る。
 施設の子供ということで肩身が狭かった記憶は、原にはない。が、出身者の一人は 「学校では『仙島の子は』といわれることも多かった。ものがなくなったとき、希望 の家の児童だけ残して調べられたこともあった」と話す。
 中学を卒業した原は、地元の農機具会社やベッド販売会社で働いた後、東京へ出た。 製紙原料問屋に十年間勤め、不動産会社の営業などを経て、八五年に仙島へ戻った。 三十七歳になっていた。
 東京時代、自分でもよく働いたと思う。だが、疲れた。社長や上司が現れると急に 仕事を熱心にやり、もみ手するような社会が嫌になった。自然の中でのんびり暮らし たかった。「これからは今のペースで生きたい」という。

 《辛苦》
 新南陽市の隣の徳山市に住む男性(五七)は、希望の家の設立直後から十年以上を 過ごした。
 戦争で親と離ればなれになったという記憶があるが、よく覚えていない。自分がど こで生まれたかもはっきりしない。名前と生年月日は、親から聞いていた。
 四国などあちこちを転々とし、十三歳のころ希望の家に入った。それまでは学校に も行かず、船に乗って雑用を手伝いながら、独りで暮らしていた。
 青年になってからも、施設の子供の世話などを手伝った。三十年ほど前に施設を出 て、船の甲板員をした後、溶接関係の仕事を続けてきた。現在は妻と娘二人の四人家 族。
 戦争から五十年。「確かに豊かにはなったが、世の中が良くなった感じはしない」 と思う。
 人生を振り返ると、つらいこと、思い出したくないことも多かった。孤児だったこ とを娘たちに詳しくは話していない。「このまま静かに暮らしたい」
 園長夫妻の遺族は「希望の家の子供たちはさまざまな人生を歩んだ。施設の名を見 聞きすれば、心が痛む人がいるかも知れない。それを思うと、取材には協力できない」 という。
 希望の家を巣立った孤児たちの、その後の人生を見守るように、「友情の波止場」 はいまも、瀬戸内の海にたたずんでいる。(敬称略)

 <希望の家>
 朝鮮半島から引き揚げた故石丸一寿さんと、妻の故逸子さんが一九四九年、仙島の 別荘だった建物を借り受けて整備し、児童福祉法に基づく養護施設として認可された。 夫妻は独力で周囲の山地を開墾しながら、施設を拡充した。六七年、夫妻の引退で養 護施設としては閉鎖され、精神薄弱児収容施設に衣替えした。六八年に「鹿野学園」 と改称、山口県鹿野町に移転した。

 【写真説明】
 「希望の家」の跡地と、日米友情の波止場。海の向こうは周南コンビナート群=山 口県新南陽市で、本社ヘリから

朝日新聞社


1995/05/04 朝日新聞

児童の福祉と親権 虐待などがあれば保護(みんなのQ&A)
朝刊 4頁 オピニオン 写図有 (全1247字)

 Q 先月中旬、捜査当局が山梨県上九一色村のオウム真理教の施設を家宅捜索した 時、五十三人の子どもを保護して児童相談所に移したね。なぜこうした処置を取った の。
 A 児童福祉法に「保護者のない児童または保護者に監護させることが不適当であ ると認める児童(十八歳未満)を発見した者は、福祉事務所または児童相談所に通告 しなければならない」とあるんだ。この規定に従って、子どもを見つけた山梨県警が 山梨県中央児童相談所に報告し、児童相談所が「親と一緒にいなかったり、栄養不良 の子どもが多く、保護が必要」と判断したわけだ。
 Q あの子たちはこれからどうなるの。
 A 児童相談所が、子どもたちの家庭状況などを調べているところだ。一人ひとり 事情が違うから、親元へ戻していいのか、ほかの親族、たとえば祖父母に面倒を見て もらうのがいいか、養護施設や里親にゆだねるべきか、簡単には判断できないからね。
 Q 信徒である親が子どもの引き渡しを求めて裁判所に人身保護を申し立てたね。 親がいても養護施設などに預ける場合があるの。
 A 親に虐待されたり、放置されたりしていた子どもが、元の状態に戻ってしまっ ては、何のために保護したかわからないからね。法律的には、親の同意がなくても家 庭裁判所の承認があれば可能なんだ。
 Q 家裁が承認することは多いの。
 A 厚生省の統計によると、一九八九年度から九三年度までの五年間で、家裁への 請求は四十四件、承認されたのは三十件だった。児童相談所が扱う虐待の事例は年間 千六百十一件(九三年度)にも達している。虐待の実態からすると、請求件数そのも のが極めて少ないといわれている。
 Q なぜだろう。
 A 「親権」という言葉を聞いたことがあるだろう。民法では、親権者は「子の監 護及び教育をする権利を有し、義務を負う」と定めている。ところが、子を虐待する ような親の中には、子どもを育てる義務を果たしているとはとてもいえないのに、親 権をふりかざす人も少なくない。こういう親の親権を制限することに、児童相談所は 非常に慎重なんだ。もし家裁で請求が認められなかったら、一度対立した親との関係 修復が難しいという事情もあるようだ。虐待問題に取り組んでいる弁護士によると、 児童相談所や養護施設が保護した子どもを親に返してしまうことも少なくないという。 法律上は、親権を剥奪(はくだつ)することもできるが、そうした事例はまれだ。
 Q 子どもは親の所有物という考え方が背景にあるみたいだね。子どもの人権より 親の立場が優先されるのはおかしいなあ。
 A 日本が昨年批准した「子どもの権利条約」では、虐待などを受けた子どもの保 護のため、国はあらゆる措置をとると、明記されている。子どもの人権を守るために は児童福祉法などの改正が必要という意見も強い。今回の事例が、児童の人権や福祉 について議論を深めるきっかけになればいいね。
 (社会部・出河雅彦)

 【写真説明】
 児童相談所に運び込まれるオウム真理教信徒の子ども=4月14日、甲府市で

朝日新聞社


1995/05/02 朝日新聞

顔も知らぬ「実父」のもとへ 米イリノイ州の「子別れ裁判」
夕刊 2頁 2総 写図有 (全392字)

 【ニューヨーク1日=共同】米イリノイ州で里親夫婦に育てられてきた四歳の男児 が三十日、裁判所の命令により、顔も名前も知らない実の両親に引き渡された。約二 週間前、自分が里子であったことを知らされた男児はこの日、約二百人が見守る中、 泣き叫びながら四年間過ごした「自宅」から、実の両親に引き取られていった。
 男児は生まれて間もなく実の母親が里子に出し、シカゴ郊外に住む夫婦に育てられ た。当時外国にいた実の父親は帰国後、自分の子供が里子に出されたことを知り、養 育権を主張して裁判所に訴えを起こした。
 里親は「自分たちに育てられる方が子供は幸せ」と反論、州知事らも里親に同情的 だったが、イリノイ州最高裁は実の父親に養育権があると判決。連邦最高裁への上告 も却下され、判決が確定した。

 【写真説明】
 米イリノイ州のシカゴ郊外で4月30日、里親(右側)から男の子を引き取り、車 に乗り込む実の父親=AP

朝日新聞社


1995/04/09 朝日新聞

海を渡る赤ちゃん 朝日新聞大阪社会部著(新刊抄録)
朝刊 13頁 読書 写図無 (全169字)

 望まれずに生まれた赤ちゃんたちが、米国やヨーロッパ諸国へと「輸出」されてい る。過去十年間で六百五十人。「婚外子」に対する社会の根強い偏見と差別が、この 「国際養子」という現象を生み出している。国内で里親や養子縁組の手立てがもっと 真剣に考えられるべきではないか、と思わされる。豊かな国日本の貧しい内実を伝え る。
 (朝日新聞社・一、三〇〇円)

朝日新聞社


1995/03/17 西日本新聞

増える無国籍児、人権保護を視点に、求められる施策
朝刊 15頁 0版15面3段 (全1426字)

 先ごろ、両親不明の無国籍児に日本国籍を認める最高裁判決があり注目された。日本で生まれたのに、日本国籍も取れず、外国人である母親の国籍も取れない「無国籍児」 が急増しており、子供の幸せの視点からの施策が早急に求められている。
 ◎施設収容は倍増
 東京都社会福祉協議会乳児院部会の調査によると、一九九三年では、都内十二カ所の乳児院に在籍した三歳未満百四人のうち、無国籍児は十九人で、前年のほぼ二倍。こ の数年は、倍々の速度で増えている。
 しかし、これは施設に収容されている乳幼児で、施設以外で育っている子に関しては、その実態がほとんど分からない。
 法務省によると、日本人と結婚していない外国人女性の子供は、日本国内で生まれても、父親が不明の場合は日本国籍が取れない。母親が母国の在日大使館などに届け出 ればその国の国籍が取れるが、不法就労者の場合は、強制送還を恐れて、ほとんど届け出ないのが現実だ。
 ◎国家の保護がない
 母親が偽造旅券で入国し、母国で婚姻届に必要な証明書を取るために強制送還されると、入管法により一年間は再入国できない。
 外国人支援団体ヘルプ(東京)の松田瑞穂代表は「入管法と出生法や婚姻法を連動させる運用に問題がある。そのために無届けの子供が増えてしまう。婚外子だからといって 差別するのではなく、認知だけで国籍が取れるようにするべきだ」という。現在は胎児認知された子供だけ国籍が取れるが、出産後に認知されても国籍は取れない。
 無国籍児の場合は、いろいろな検診や予防注射などを公費で受けにくく、里親や養子縁組にも複雑な手続きが必要だ。さらにパスポートも取れないので、国外に出ても、どの 国の保護も受けられない。
 ◎後で選べるように
 同協議会乳児院部会長でもある日赤医療センター付属乳児院の坂田尭院長は、必ずしも一律に日本国籍を与えればいいものではないと、次のように語る。
 「子供を残して消えた女性が、後で金をためて引き取りにくるケースもある。そのとき母親と国籍が違うと面倒なことになる。また外国人同士の間で生まれた子供もいる。従っ て、仮の国籍を与えて、日本国籍の子供と全く同じに扱って、後で引き取る母親が現れなかったら、本人が十八歳になったとき、自分で国籍を選べるようにすればよい」
 一方、公的な施設以外の劣悪な保育環境に置かれている無国籍児たちを救うことも大切だ。坂田院長は「児童相談所や乳児院などでは子供の人権の保護からも母親の不法 就労をとがめたり、所轄官庁に届けたりしない柔軟性があるので、まず相談してほしい」と呼びかけている。
 ▼写真説明/乳児院にも増えている無国籍児=日赤医療センター付属乳児院

西日本新聞社


1995/01/30 朝日新聞

短期里親に1630家庭 阪神大震災
朝刊 26頁 2社 写図無 (全186字)

 阪神大震災で生活環境を奪われた児童、生徒を一時的に預かってもらおうと、神戸 市が全国の家庭に短期里親を呼びかけたところ、二十九日現在、北海道、東京、神奈 川、愛知、近畿六府県、福岡などの全国千六百三十家庭(受け入れ人数三千百三十六 人)からの申し込みがあった。地域ぐるみで「短期里親」を企画した同市北区のニュ ータウンでは、約百二十家庭が応募。この日、受け入れ第一号が誕生した。

朝日新聞社


1995/01/25 朝日新聞

子どもたち、懸命に生きる 里親の申し出も次々 阪神大震災
夕刊 12頁 2社 写図無 (全1118字)

 阪神大震災は、両親を一度に亡くした子どもたちを生んだ。つぶれた家の下で声を かけ合って助かった兄弟は父母のひつぎに寄り添った。祖父の家に身を寄せた二人は 春、高校、中学の受験に挑む。

 西宮市高木西町の中学三年畑中広介君(一五)と弟の小学六年、信介君(一二)兄 弟は十七日朝、自宅の二階で寝ていた。階下には中学校教諭の父進一さん(四七)と 母昌子さん(四五)がいた。
 木造二階建ての自宅は、近づいてきた兄弟の受験勉強のために、手狭になった近く のアパートから移り住んだものだった。
 自宅が崩れ落ちたとき、兄弟には床が飛びあがったように見えた。「兄ちゃん、ど こにいるの」。土煙の中で、涙声の信介君が兄を必死で捜す。「ここ」と広介君。広 介君の背中に、弟の信介君は夢中でしがみついていた。
 両親は、がれきの中からみつかった。「お父さんも、お母さんも、もう笑わないん だ」
 祖父の広さん(七五)らが遺体安置所のある中学校に駆けつけた時、兄弟は、両親 のひつぎにくっついてしゃがみこんでいた。両親の遺品になるものはまだ、何も見つ かっていない。
 地震後、神戸市内の二カ所の養護施設に、十九人の子どもが預けられた。
 兵庫区中道通二丁目の木造二階建て共同住宅で、祖母の良子さん(五一)と二人で 住んでいた会下山小学校六年の垂井勝彦君(一二)は、一階居間で寝ていた。タンス や置物が倒れ、闇(やみ)の中で、良子さんが「近くのおじちゃんを呼んで来て」と 繰り返した。五分ほどすると、良子さんの声は途絶えた。良子さんの遺体は三日後に 見つかった。
 勝彦君は昼はうどん店、夜は旅館で働く良子さんに育てられた。両親の顔は知らな い。勝彦君は神戸市北区の養護施設「天王谷学園」で暮らし、二十三日から近くの小 学校に通い始めた。
 学園の波来谷英美さん(六〇)は「夜になると添い寝の保母の手を握って泣いてい る」と打ち明ける。
 「阪神大震災で被災した子らを預かります」という申し出が全国から神戸市などに 寄せられている。
 兵庫県境にある人口一万人弱の港町・岡山県和気郡日生町は、神戸や西宮、芦屋各 市に、被災して親を失ったり、一人で疎開を余儀なくされたりした子ども二百人を受 け入れると申し出た。日生町役場は「昔から神戸港に働きにいく町民が多かった。何 とか手助けしたい」。
 大阪市天王寺区や福岡県甘木市の市民からも同様の申し出がある。大阪市内の自営 業者(五三)は「我が子は就職しており手がかからない。部屋が二つ空いている。子 どもたちの精神的な支えに」と話している。
 両親が亡くなった子どもらについて、兵庫県などは西宮市青木町の西宮児童相談所 など指定された八カ所の児童相談所に相談するよう呼びかけている。

朝日新聞社


1994年の里親記事へ