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養育里親として学んだこと日本の児童福祉 第17号(2002年7月発行) より 養育里親 ○○○○(東京都)96年10月、養育家庭里親の登録申請をしました。それから5年半、振り返ると、とても密度の濃い毎日でした。その5年半の里親体験を綴り、子どもの養育について思うところを述べさせていただきます。 1.委託されるまで就職した春のことでした。職員報にボランティアの案内が出ていました。「養護施設の子どもたちと一日楽しく遊びませんか」とあり、子どもが好きな私は、さっそく申し込みました。当日、400ccのバイクで乗り付けると、ワッと子どもたちが群がってきました。 電車の中でも、山歩きの最中も子どもたちがまとわりついて離れず、子どもに返って一日楽しみました。10人を相手に追っかけっこをしたり、相撲をとったり、子どもたちは半狂乱ともいえる興奮ぶりでした。 同行した保母が、「体を使って遊んでくれる男の先生がいないので、若い遊んでくれる男の人は、子どもたちが夢中になるのよね」と説明してくれました。会の目的は、施設にいる間に子どもたちと仲良くなり、施設を出た後に先輩として様々な相談事にのり、自立を助けるというものでした。 10年ほど子どもたちとハイキングやキャンプなど楽しく過ごしました。 参加するメンバーに不思議な家族がいました。夏のキャンプに参加するたびに家族が増えていました。毎年1人ずつ増え、多いときで5人もの幼児を連れて来ていました。それが里親を知るきっかけでした。当時独身だった私は、「他人の子どもを育てるなんて、なんて物好きな人だろう」と思っていました。 さて、一緒に楽しく遊んでいた子どもたちも、年が経つにつれ、施設を出て行きました。子どもたちは、なかなか生活が安定せず、職や住まいを転々とし、不安定な生活をしている子が大半でした。その度に、就職の相談、お金の相談(これが一番多い)、住まいの相談を受けていました。お金の相談は、早い話が金を貸して欲しいというものばかりで、小額ならば、あげるつもりで貸していました。事実、実際に帰ってきたのはわずかでした。 その中で仕事の保証人になった子が、就職先のお金を持ち逃げし、かなりの額の損害金を賠償させられました。数ヶ月間逃げつづけ、すべて遊行に使い果たして、再果ての地の警察に自首してきました。拘置所で面会したときに、「なぜ、お金を取るときに、私の顔が浮かばなかったのか」と問いつめましたが、「申し訳ない」と謝るばかりで、明確な返事がありませんでした。彼とは小学5年の頃からつきあっていましたが、この10年間のつきあいは、いったい何だったのだろうとがっかりしていました。施設の子どもたちに係わる限界を感じました。 縁あって結婚し、子育てをしていた私は、しばらく子育てに熱中していました。妻よりも私になつくほどに子育てをしていました。 そのとき、自分の子どもと施設の子どもとの違いに思い至りました。生まれたころから手をかけて育てている実子は、親に対して無条件の信頼感をもっています。翻って、10年以上かかわったとはいえ、施設の子どもたちは「必要なとき」にはやってくるが、必要としないときは、私は存在していないのではないのだろうかと。やはり、小さいころから育てないと、人との信頼感は構築できないと思いました。まだ、子どもに対する愛情さえあれば、子どもは素直にすくすくと育つものだと信じていました。 妻とそんな気持ちを話し合い、実子が小学校にあがったら第二子は作らずに、里親になることにしました。 待つこと6年、子どもが小学校にあがった年に、養育家庭センターに電話し、面接を受けました。家庭調査のあと半年も経ってから、ようやく養育里親として登録されました。 すぐにでも子供が委託されると考えていたら、なかなか子どもは来ませんでした。第二候補、第三候補の話は来ますが、第一候補の方に委託が決まりましたという連絡ばかりでした。 2.子どもとの交流申請してから1年すぎた頃、ようやく被虐待の子どもの委託の話が来ました。 何回か交流しましたが、独り言のようにしゃべったり、話しかけても反応がなかったり、ネグレクトを疑わせる子でした。体のところどころにタバコの火傷の痕らしきものがありました。食事も、食べられるときに食べるといったかんじで、止めなければいつまでも食べ続けました。夜寝るときは、四本の指をすべて口に入れ、チュパチュパと寝付くまでしゃぶっていました。頭をたたくとメロディが流れる人形を見て、泣き出したこともありました。びっくりして泣くのではなく、人形の頭を叩くことに反応して泣いているようでした。かなり叩かれてきたのだろうと思いました。 2ヶ月ほど交流しましたが、親が里親委託に反対し、児童養護施設に入ることになり、交流は中止となりました。 申請してから2年たった7月、乳児院で暮らす2歳7ヶ月の男の子と交流することになりました。 乳児院で初めて面会したときは、穏やかな雰囲気の、おとなしい子だという印象をうけました。言葉は、はっきりしているし、一緒に遊ぶと、ちょっとヒントを与えるとパッと反応し、機転が利き、頭の良さを感じさせました。庭で一緒に遊ぶと、大きな夏みかんを見せてくれて、「ちょーだい」と言うと「ダメ」とはっきり断ります。「貸して」と言うと、「はい」と手渡してくれます。言葉の違いも判るようです。 乳児院というものを知らない私は、生後すぐに乳児院に入り、職員の手厚い世話の中で、健やかに育ったものだと勝手に解釈していました。しかし、乳児院で育つことがネグレクトであるとは、当時は全く思っていませんでした。 我が家で断った場合や交流が不調に終わった場合は、養護施設に行くことになると聞きました。 園長と話すと、私の職業を聞いて急に砕けた調子になり、「子どもが少なかった頃は、あちこちにお願いして、『子どもを回してもらった』んですよ」と、言いました。子どもを物の在庫のように扱う発言に、「物じゃないんだから、回すはないだろう」と、不愉快に感じました。 3ヶ月間のあいだ、せっせと乳児院に通い、子どもとの交流は8回のお泊まりを含め、24回にも及びました。しかし、乳児院では、里親委託のプログラムがなく、里親委託されたのが数年前に一人いたという有様で、里親委託の経験もなくノウハウも確立していない様子でした。毎週2〜3回と通い続けても、いつ委託されるかの目処も立たず、だんだんとつらい気持ちになってきました。乳児院に「いつになったら委託されるのか」と聞いても、「児童相談所に聞いてからでないと・・・」と煮え切らず、児童相談所に聞いても、「乳児院に聞いてから・・・」と、煮え切りません。交通費だけでも、三ヶ月で十万円ちかくなり、家族で往復3時間かけて通うことに疲れ切ってしまいました。「何年交流すれば、我が家に委託されるんですか?」と皮肉を込めて、児相ワーカーにいい、ようやく三ヶ月たった10月に長期宿泊となりました。 一ヶ月の長期宿泊を経て、正式に委託となりました。委託前の面接時に、児相ワーカーに質問しました。「2歳半となると、乳児院での生活習慣もつき、里親が無駄に苦労する。どうして生後すぐに委託できなかったのか」と聞くと、「乳幼児は大変なので、逆に希望が少ない。里親の希望は、小学校に上がる頃の子が一番多い。子どもも、我が家で受けなければ、他に希望する家庭もなく、養護施設に行く」との返事でした。 あとで知りましたが、多くの里親は乳幼児からの委託を希望していることがわかりました。さらに、「乳児院に措置したらそれっきりで、養護施設にいく2歳になってから、選択肢の一つとして里親委託を考えたとしたら、怠慢ではないか」と質問したら、「いろいろと忙しく一つのケースばかりに構っているわけにはいかない」と言い訳するように答えました。 3歳までの人生で一番大切な、人間としての基礎を作る時期に、里親委託もされず、ずっと乳児院で過ごすのは、行政によるネグレクトだと痛感しました。 乳児院を最後に出るとき、本人に確認しました。「今日から、ずっとおうちにいるんだよ。乳児院には、もう帰らないよ。いいね。わかったら、はい、いやだったら、いや、と言って」と。子どもは「はい」と答えながら頷きました。」 乳児院をでるとき、誰一人して泣く保母はいませんでした。全員ニコニコと手を振って見送りました。そのとき、泣くほど思いを込めてくれた保母はいなかったのだと思いました。子どもも、「早くいこう」といわんばかりに、私の手を引っ張り、乳児院を出て行きました。 園長が、門を出て角を曲がるまで、手を振って見送ってきました。ところが、翌年、乳児院の運動会に行ったら、子どもを含め、私たちのことを覚えていませんでした。委託をずるずると引き延ばしたのも、ずっと追いかけてきたのも、月額六十万円の措置費が逃げていくと思ったのではないと、意地悪く考えてしまいました。 3.委託されてから子どもは、体がガサガサで、全身が鮫肌のようでした。手足もシワシワで、2歳児なのに老人のようでした。乳児院では、すぐにお漏らしをするので、水分を控えさせられていたようでした。乳児院で食事をさせたとき、子どものコップには、麦茶が半分も入っていなくて、子どもは最初に一気に飲んでしまいました。そして、私がお代わりを頼むと、職員は、いやな顔をして半分だけ注ぎました。「これじゃ少ないので、もっと入れて下さい」というと、さらにいやな顔をしてシブシブ注いでくれました。普段から、水分を制限されていたのだと思いました。 我が家では、いつもペットポトルを持たせ、好きなだけ水分を取らせました。三十分おきにお漏らしをしたり、トイレに行ったりするのには閉口しましたが、半年も経つと少しずつ肌がスベスベになり、子どもらしい肌になってきました。 交流中は、布団に横になるとすぐに寝付いていました。しかし、我が家に慣れるにつれ、だんだんと寝なくなりました。いつまでも起きていて、暗い中で指しゃぶりしたり、手遊びをしていました。本人も寝ようしているようなのですが、なかなか寝付けない様子で、優しく体をさすったり、抱っこしたりして、寝かしつけに苦労しました。 食事も、最初は何でも食べていましたが、だんだんと野菜を食べなくなりました。口に入れると、いつまでも噛まずに、ハムスターのように口の中に入れたままでした。「食べなさい」と叱ると、ジッとこわばって動きません。スケジュールに追われる乳児院では、食べずにいても、食事の時間が終わったら、お膳を下げられたのだと思いました。したがって、食べ物を咀嚼する力が弱く、顎も発達していませんでした。カマキリのような逆三角形の顔をしていました。 なかなか食べないくせに、果物だけは過食ぶりを示し、自分のだけでなく私のまで食べたがりました。ミカンを好きなだけ食べさせようと1キロ買ってきたら、あっという間に食べてしまいました。仕方ないので、5キロの箱で買ってきたら、3日でなくなりました。納得いくまで食べさせようと、毎週10キロのミカン箱を買い続けました。3ヶ月も経つと、ようやく飽きたのか、ミカンを置いていても、数個で満足するようになりました。 叱ると固まり、大人を睨みつけます。特に妻を馬鹿にして、言うことをいっさい聞きません。そのくせ、ベタベタと触ってきます。心が通じ合っていないのに、ベタベタと触られるのは、とても辛いものがありました。 人によって態度を変えるのも顕著でした。外に連れて行くと、初めてあった人でも、抱っこをせがみ、ニッコリと天使の笑顔で笑い、自分から頬ずりをし、あまつさえキスまでします。人見知りをしないのは、相手にとっては嬉しいことですが、懸命に世話している私たちの目の前で、そのような態度をとられるのは、私たちが不要だと言われているような気になりました。 あまりにも他の人にベタベタするので、情けなくて、悔しくて、帰り道すがら涙が止まらず、思わず子どもに噛みついたこともありました。 他の人たちは、初めて会ったにもかかわらず、ベタベタと甘える子どもを見ても変だとは思わないようでした。カリカリする私たち夫婦に、「人なつこいいい子じゃない」と、暗に私たちの我慢が足りないかのような言葉を投げかけます。 区役所に行ったときのことでした。子どもの姿が見えないので、辺りを探すと、知らない男の人に手を引かれて廊下の角を曲がっていきました。「うちの子をどこに連れて行くのですか」と言うと、「いや、あまりにかわいいので・・・」と言い訳しながら、男の人は逃げていきました。 ある時は、勝手に家を抜け出し、道路端で手を挙げてタクシーをとめようとしていました。 ワーカーに話をしても、「そのうち落ち着きます」としか言わず、また、委託当初であるにも関わらず、数ヶ月に一度、電話で様子を聞いてくるのみでした。 実子を愛情たっぷりに育て、それなりに安定して育っているので、多少の子育ての自信はありました。しかし、愛情だけでは通用しない子どもがいるということが、なかなか信じられずにいました。「どこか違う」「どこかおかしい」と思いながらも、それが何なのか言語化できずに悶々としていました。 毎晩のように、夫婦で話し合い、愚痴をこぼしあい、そしていつも涙が出てきました。 「私たちの愛情が足りないのだろうか」と自分たちを責めるようになりました。私たち素人が、親に捨てられ、乳児院に放置された子どもの心の傷に寄り添うのは、無理なのではないかとさえ思いました。しかし、もう子どもは帰せません。帰せば、再び捨てることになる。なんとか、解決策を探していこうと話し合いました。 そこで、子どもがおかしくなった原因を、二人で懸命に考えました。乳児院の子どもたちの本を探し、読ました。そこには、信じられない記述がありました。「あと追いさせるのは保母失格」と。信じられない気持ちでした。乳児は、母親などの養育者にべったりと甘え、信頼感を作り上げていきます。人見知りをするようになれば、養育者との信頼関係ができ、依存することができます。そして、あと追いは、その正常な発達の結果であることは常識です。しかし、それが許されないのが乳児院の世界でした。 たしかに乳児院では、保母が3直で交代し、入れ替わり立ち替わり人が代わるので、誰にでも懐くのは生きる知恵だと思います。特定の保母と関係ができている子どもがいたら、その保母がいないときは、他の保母がやりづらいのも、理屈としては理解できます。 でも、誰にでも甘えるということは、逆に誰も信頼していないということです。今、目の前にいる大人に甘えることがすべてで、目の前にいない大人は存在していません。そして、その場で一番影響力のある人、力のある人をすばやく見つけ、まずその人に甘えます。これはもう見事というほどです。 結局、子どもは乳児院の都合に合うように、育てられたのだと思いました。 さらに、別の乳児院の職員と話をする機会がありました。「人手が足りないので、一人一人抱っこしてミルクを飲ませることができない。タオルを丸めて哺乳瓶を立てかけ、乳児に飲ませている」「離乳食も、半円形に座らせて、母鳥がたくさんの雛に餌をやるように、スプーンで口に運んでいる」「乳幼児を抱っこするのは、着替えさせるとき、ベッドを移動するときくらい」「お風呂は、流れ作業で子どもの体を洗い、タオルを持った保母に手渡す」「添い寝はできない」「泣いたら、諦めて泣きやむまで放っておく」等々。そこには、一人一人の子どもを大切に育てる姿はなく、ベビー工場とでもいうような、育児の流れ作業システムが目に浮かびました。人として、大切なものを得られずに育った、壊れた子どものできあがりです。 「そういえば・・・」と、子どもの乳児院の様子を思い出しました。お泊まりの時、着替えを要求したら、「70」「80」「90」とラベルの貼ってある戸棚から、無造作にいくつかの服を取り出し、手渡されました。パジャマは、夏であるにもかかわらず、裏に起毛のある厚手のパジャマでした。 靴も、サイズが書いてある下駄箱から、適当に取り出し履かせていました。服も、おむつも、靴も、おもちゃも、何もかもが共用でした。唯一個人の物であるのは、歯ブラシとうがい用のコップだけでした。(名前が書いてありましたから多分そうでしょう) 24人の子どもを2、3人の職員で見ているので、子どもには目が届きません。従って、おもちゃの取り合いなど、様々な子ども同士のもめ事を、自分だけで解決しようとします。ベタベタするくせに、大人に依存する習慣がないため、なんでも自分の浅い知恵で行動します。一見自立しているようですが、大人を信頼することを学習していないのだと思いました。 だんだんと、乳児院の実態が浮かび上がり、これでは、子どもがおかしくなっても仕方ないと思いました。 そして、子どもの虐待関係の本を読んでいると、うちの子どもの行動パターンとそっくりなことに気づきました。特にネグレクトの子どもの症状が当てはまりました。そうか、親子の信頼関係を作らせないことは、ネグレクトなのかもしれないと考えるようになりました。 4.反応性愛着障害(RAD)他の里子の様子はどうなのだろうと、インターネットで検索しました。「里子」or「里親」で検索をかけると、なんと三万件ものホームページがヒットしました。「社会は、『里親』『里子』にこんなにも関心があったのか。単に私が知らなかっただけなのか」と、嬉しい気持ちでページを見ていきました。ところが、「犬の里親、猫の里親、・・・」果ては、「たまごっちの里親」まであり、人間の里親のホームページは皆無でした。ペットの飼い主や物の持ち主を「里親」と称し、ペットや物を「里子」と呼ぶ。そんな、里親子の神経を逆なでするホームページばかりでした。 怒りにかられ、そんなら「人間の里親ホームページ」を作ってやるとばかりに、里親ホームページを立ち上げました。すると、Yahooをはじめ、有名ポータルサイトがこぞって掲載してくれ、アクセス数が増えていきました。 ホームページは、里親・養親をはじめ里親制度や特別養子縁組に関心のある方が集まり、かなり賑わいました。そのうち、カナダの里親(日本人)とメールのやりとりをするようになりました。「うちの子が、誰にでもベタベタし、初めてあった人にさえ、抱っこをせがみ、果てはキスまでする」とぼやいたら、「それは『反応性愛着障害 (Reactive Attachment Disorder)』ではないですか?」と言われました。 聞けば、50万人以上の家庭養護(foster care)されている子どもがいる養子大国アメリカでは、養子・里子の問題行動が研究され、それがひとつの障害として認識されているとのことでした。アメリカ精神医学会が発行している、精神医学の世界で最も大きな影響力を持った診断基準であるDSM−W(精神障害の診断と統計マニュアル第4版−Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders)にも、RADの診断基準がのっているとのことでした。 反応性愛着障害(RAD)というキーワードを手に入れた私は、アメリカのホームページを探しました。海外のホームページの翻訳を手伝ってくださる方もいて、愛着障害の専門コンサルタントホームページなど、いくつかのホームページを翻訳することが出来ました。そして、ようやく、私たち夫婦が感じていた疑問がはっきりと姿を現しました。子どものおかしさも、原因がなぜであるか納得できました。 しかし、原因や症状がはっきりしても、愛着障害の回復もお金になるアメリカですから、具体的な対応方法はホームページで見つけ出すことはできませんでした。しかし、原因や症状がわかったので、夫婦で懸命に考えました。 そして、たどり着いた結論は、「愛情と規範、そして忍耐」でした。子どもは、誤ったコミュニケーション手段・人間関係を学習しています。その誤った学習を、根気よく、忍耐強く修正していきます。子どもがどんなおかしな態度、行動を取ろうとも、自分たちの態度を変えません。曲がって育った木をまっすぐに矯正するように、時間のかかる忍耐強さが求められるのが、虐待を受けた子どもたちの子育てなのだと考えました。しかし、「言うは易く行うは難し」でした。 子どもの問題行動に振り回されず、堂々としていようとしていても、そのすさまじい試しともとれる行動は、私たち夫婦を揺さぶり続け、時には子どもが悪魔に思えることもありました。 そんな折り、テレビで「愛着障害」の特集番組が放映されました。さっそく、テレビに出演した東京福祉大学のヘネシー澄子先生に会いに行きました。 ヘネシー澄子先生から、愛着障害の話をいろいろ伺い、大変勉強になりました。子どもの行動の一つ一つに意味があることが理解できました。 愛着障害にも、無愛着から完全な愛着まで、グラデーションのように幅があり、一言でくくれるものではないとわかりました。 のべつまなくしゃべることや、とにかく音を出したがることなども、自傷行為と同じように、自分を存在確認している。常に自分を刺激し続けているとの話は、頷けることばかりでした。 子どもは、2時間半の間、ずっと音を出し続け、しゃべり続け、動き続け、ひとときもジッとしていませんでした。それでも、愛着障害の子の行動には慣れていますから、とイヤな顔をせず、ずっと話をして下さいました。子どもは、色を聞かれても判らず、5つまでの数も数えられず、相変わらずのおとぼけぶりですが、愛嬌だけは天下一品で、教授にも可愛がってもらいました。 2時間半、ずっとお話を伺い、子どもの行動のおかしさなど、理解してくれる人がいることに、嬉しくて涙が出てきました。「呼んでもらえば、里親会の学習会などでも、話をしますよ」と言われ、大変心強く感じました。 養育方法について、いくつかのアドバイスをいただきました。基本的には、我が家の養育方針で間違っていないとの確信を持ち、満足感を胸に帰途につきました。
最近の研究では、養育者の抱擁や声かけにより、赤ん坊の神経細胞が刺激され、発達していくとのことです。抱っこされず、ぬくもりを与えられなかった子どもは、自分の神経細胞の発達を促すために、自らを刺激し続けるのだと考えると、落ち着きのなさが説明できます。いすに座っても、不安定な座り方をする。刺激に反応しやすい。興奮しやすい。興奮が冷めにくい。これも、自分で自分を刺激し続けていると考えることで、受け入れることができるようになりました。 同時に、ここまで子どもの発達する権利が阻害されていたことに、憤りと悲しみを覚えました。 5.終わりにさて、里子がわが家に来てから、4年経ちました。本当に密度の濃い4年でした。妻は、子どもが来てからの半年間が、よく思い出せないといいます。トラウマになるほど辛い時期だったのでしょう。私も、当時のことを語ると、いまだに涙があふれてきます。里子が家庭になじむまでに、それほどすさまじい戦いがあったのだと思います。子どもを家庭に受け入れるのは、当の子どもにもストレスになりますが、受け入れる家庭にも、相当な衝撃を与えます。カナダでは、「里子は家庭を破壊するパワーを持っている」と言われています。まさに、我が家も破壊されかねない衝撃を受けました。 養護施設に帰そうかと、何度も考えました。しかし、乳児院から来た子どもにとって、養護施設は帰る場所ではなく、新たに行く場所であり、親に捨てられた傷の上に、さらに私たち里親に捨てられた傷を重ねることだと考え、懸命に耐えてきました。 他からの支援もなく、子どもの問題行動の説明や理由付けもなく、手探りで歩んできた4年間でした。子どもの発育がちょうど1歳遅れていること、年齢よりもかなり発達が遅いことなどから、どの程度発達が遅れているのか調べました。子どもの知能の発達について相談に行ったら、「イヤなら(里親を)辞めていい」と言われたこともありました。あとでそんなことは言っていないと言い訳しましたが、この言葉は、いまでも耳に焼き付いています。 子どもは、平均より8ヶ月近く発達が遅れているようでした。私たちが子どもにできることは、今までどおり日常の生活の中で、根気よく発達を促していくことしかありませんでした。それでも、子どもの発達の状況が明らかになり、かえって安心することができました。 里子は、いま赤ちゃん返りをしています。4年経ち、ようやく赤ちゃんになって親子関係を作っていい、信頼できる相手だと思ったのでしょう。無条件の信頼関係は、これから作っていくのだと思います。 生後すぐに乳児院に入れられ、自分だけを愛してくれる大人もいない状態で、子ども同士で争い、すべて力関係の中で解決をしてきたのですから、すぐに大人に依存できるはずもありません。子どもは、心より信頼できる大人がいなければ、子どもでいることは出来ません。信頼できる大人を持たず、すべて自分の考えと、力で解決しようとしてきたのでしょう。甘えようとしても、相手がすぐにいなくなるのですから、甘えることも出来なかったのでしょう。「所詮、大人はすぐにいなくなる」と学習したでしょう。 わが家でのすさまじい反抗は、絶対に捨てられないと心から確信するまで、続くのだと思います。愛情と忍耐をもって、気長につきあっていくしかないのだと思います。 それにして、現状の児童養護のシステムは、おかしいとしか思えません。乳児院に子どもを長期間措置し、愛着障害にして養親・里親家庭に出しています。その結果、養親・里親が不必要に苦労しています。乳幼児は原則里親委託とし、乳児院の入所期限を1、2ヶ月と定めるべきでしょう。我が家の子どものように、養護施設への措置変更まで放って置かれるのであれば、子どもに対する組織的権利侵害といっても過言ではないでしょう。このシステム虐待ともいえる状況の一番の被害者は、子どもたちです。心から信頼できる大人を持たず、生き延びるために、その場その場で大人に甘えます。その大人がいなくなれば、すぐに心から消えていきます。心に誰も住んでいません。 私が関わった養護施設の子どもたちに感じた違和感は、まさにこれでした。それは、養護施設だけでなく、それ以前の乳児院や家庭での育ちを問わなければ、理解できないものでした。 また、里親に対する研修もなく、知識のない里親が、子どもの問題行動に振り回されています。本来喜びであるべき子育てが、苦痛となります。そして燃え尽きて、里親をやめていく方もいます。里親子両方に、不幸な結果となります。 この国では、児童養護=施設養護という図式がずっと受け継がれてきました。養護施設で育つ子が大半で、里親家庭で育つ子は6.4%にすぎません。片や欧米では、米国の77%を筆頭に、アイルランド73%、デンマーク61%、英国58%、オランダ53%、フランス52%などと続いています(2000年度)。先進諸国では、日本より里親委託率の少ない国はありません。 「募集しても、里親の希望者が少ない」という意見もあります。里親家庭が努力して、里親を増やさないのがいけないかのような論調もあります。しかし、里親を増やすのは、里親たちが努力することなのでしょうか。 実親が育てられない子どもは、どう育つのが子どものためになるのか。子どもの健やかに育つ権利を守ることになるのか。その議論があった上で、社会的養護のあり方を検討すべきでしょう。 東京都は、今年の4月から養育家庭センターを廃止し、児童相談所が直接里親家庭と関わることになりました。私たちは、養育家庭センターを養護施設に委託するのではなく、里親センターとして統合してほしいとお願いしてきました。施設職員が代わると、養育家庭センター職員も代わり、里親をサポートするノウハウが蓄積されません。そして、養育家庭センター職員も、施設職員であるため、里親側に立つよりも、施設側に立つこともありました。 東京都の言葉を信じるのであれば、児童相談所のワーカーが、直接里親家庭と関わることで責任の所在が明確になることは、評価できることかもしれません。まだまだ、数年様子を見ていかなければならないでしょう。 いずれにせよ、東京都は里親委託を、現行の1割未満から、2〜3割にすると数値目標を出しました。養護施設ではなく、里親家庭で暮らす子どもが増えるのは、子どもにとっても喜ばしいことだと思います。 しかし、4年前の我が家のように、何も知識のなく、サポート体制もない状況で委託するのであれば、つらい結果となるでしょう。そして、そのつけは、子どもにいきます。東京都は、養育家庭(都の里親)に対する研修を増やす、あらゆる手段で広報していく、と養育家庭の拡大に力を注ぐと明言しています。 子どもの幸せのためにも、里親と行政が協力し、施設で暮らす子どもが減ることを目指していくべきでしょう。5年後、10年後に、日本そして東京都の里親がどの程度増えていくか、日本の社会的養護が問われているのだと思います。すべての子どもが、自分だけの大人を持ち、無条件の信頼関係を築き、未来を担う子どもとして健やかに育っていくことを願ってやみません。 子どもは国の未来です。子どもを大切に育てない日本の社会は、自らの未来を閉ざしているのだと思います。 |
2002/8/14 sido