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2003/2/22 update

宇都宮 養育里親傷害致死事件

事件の報道資料 / 緊急シンポの報告 / 緊急要望書

2月6日(木) 初公判の報告

3月18日(木) 第2回公判の報告
第2回公判 3月18日(木) 14:30〜17:00 於:宇都宮地裁 301号法廷


 2月6日(木)、宇都宮地方裁判所で行われた「養育里親傷害致死事件」の初公判の傍聴に行ってきました。事件番号は「平成14年(わ)第832号傷害致死」で、裁判官は、飯渕進裁判長と二人の女性裁判官でした。
 抽選になるかもしれないと早くに行ったのですが、幸い抽選にならずに済みました。報道用席が16席、一般傍聴席が32席で、ともにほぼ満席の状態でした。

 裁判官が入廷し、裁判の開始前2分間、NHKの法廷撮影がありました。撮影終了後、李被告が手錠をかけられ腰縄をつけられた状態で入廷してきました。薄紫のジャケットをはおり、小柄な内気そうな印象の女性でした。
 李被告の日本語能力が日常会話程度であるため、韓国語の通訳が入りました。日本語で質問し、それを通訳が韓国語に同時通訳し、李被告が韓国語で答え、日本語に通訳するという、通常の2倍の時間がかかる裁判でした。おかげで、ゆっくりとメモをとることができました。
 最初に、通訳の宣誓が行われました。次いで、李被告の氏名の確認が行われました。住所の確認では、マンション名しか答えられませんでした。その後、検察官が起訴状を読み上げました。
裁判官が、黙秘権があること、証言はすべて自由であるが、発言したものはすべて証拠として扱われることを告げました。李被告は、起訴状の事実を、すべて事実と認めました。
 弁護士は、事実については争わない。日本語が不自由で孤立した育児で慢性的に急性胃炎に悩まされ、心神耗弱の状態であった、と情状酌量の面で争う構えを見せました。その間、李被告は時々すすりあげていました。

 次いで、証拠調べに入り、検察官が冒頭陳述を読み上げました。

 第一、被告人の身上、経歴などが読み上げられました。
1959年9月に韓国で4男3女の末子として生まれ、学校卒業後、幼稚園に勤め、2級正教師の資格をとりました。現在のご主人と結婚し、仕事を辞めました。日本に来て日本語学校に通いましたが、閉鎖になり、独学で日本語を勉強し、簡単な日常会話ができるようになりました。入国資格は「日本人配偶者」です。

 第二、被害者順子ちゃんの身上、経歴などが読み上げられました。1999年6月4日に産まれ、実親が養育困難であるため、9月に乳児院に入れられ、3歳で里親家庭に行くまで、ずっと乳児院で育ちました。乳児院がどういう施設であるか、そこでどのように育ったのかについての説明はありませんでした。

 第三、里親制度についての説明がありました。これは省略します。

 第四、犯行に到る経緯及び犯行状況についての説明がありました。
1988年10月に韓国で結婚しましたが、子どもが出来ませんでした。韓国では養子をとることができず、日本に来ても、子どもを持ちたいという気持ちを持ちつづけ、里親制度があることを知り、里親申請をしました。児童相談所の職員と福祉事務所の職員が李被告とご主人を面接しました。
その面接では、ご主人が定職について安定収入があること、李被告が専業主婦であること、李被告の日本語能力は日常生活に不自由しない程度であると判断し、2000年2月15日、正式に里親として登録されました。
 しかし、登録はされたものの一向に子どもの話は無く、正月やお盆などの短期間、養護施設の子どもを預かる制度を利用し、子どもを預かっていました。当初は、女の子を希望していましたが、その後どちらでもいいと考えが変わりました。
 2000年9月、児童相談所より順子ちゃんのお兄さんの話がきました。数度の面会、外出、外泊をし、良好な親子関係ができかけていると判断し、2000年12月19日、お兄ちゃんを正式に委託しました。お兄ちゃんは、大変ものわかりのいい子どもでした。いうことを聞かないときは、お尻をたたいたこともありましたが、あざが残るほどではなく、しつけという程度でした。
 お兄ちゃんの養育状況が良好であると判断した児童相談所は、順子ちゃんの委託先として李被告宅を検討しました。そして、2002年3月20日、順子ちゃんを受託する意思を確認しました。夫妻は、前向きな返答をし、3月24日、乳児院で順子ちゃんと面会しました。李被告は面会、外出を繰り返しました。4月19日に心理テストを行い、委託するほうがよいとの結論を得ました。
 そして、21日から数回外泊をさせました。7月9日、再び李被告と順子ちゃんを面接し、その際に外国籍であることを知りましたが、日常会話程度の日本語がしゃべれることや、里親の資格に国籍要件が無いこと、お兄ちゃんの養育状況などから、総合的に里親として良好と判断しました。そして、7月12日から委託することを決定しました。

 夫は仕事が多忙であったため、子育てはほとんど李被告が行っていました。順子ちゃんがあまりに泣くので、「なぜ泣くの。どこか痛いの」と日本語で聞きながら、抱き上げたり、あやしたりしていました。しかし、一向に泣きやまず、泣く原因もわからなかったので、子育てに対するストレスがたまりました。苛立ちを子どもに向けてはいけないと自制し、ストレスが極限まで達したときは、トイレの壁を拳骨でたたき、穴をあけたこともありました。
 子育てが大変なため、夫に託児所に預けることを相談しましたが、子どもたちとスキンシップをとることが大切と反対され、結局託児所に預けたいと言わなくなりました。トイレの壁に穴をあけたことについても、本当のことを言わず、子育ての相談をしなくなりました。
 李被告はストレスが原因で、急性胃炎となり、病院に行くようになりました。胃痛状態であるにもかかわらず、子どものために努力しているつもりなのに、子どもは泣きやまず、なつかないこと、お兄ちゃんは手がかからないのに順子ちゃんは手がかかることなどから、強烈な苛立ちを感じつづけていました。トイレに連れていき、孫の手で足の裏を叩いたりしたこともありましたが、アザを見ると反省していました。

 11日1日、お昼にご飯を食べさせようと順子ちゃんを起こしました。順子ちゃんが、トイレに行きたいと言ったため、トイレに連れていったところ、突然泣き始めました。あやしても泣きやまないため、強烈な憎しみと苛立ちを感じ、お尻を素手で2回叩きました。ところが、さらに大声で泣きだしたため、孫の手でお尻を2回叩きました。それでも泣きやまないので、足の裏を孫の手で4回叩きました。この日は、児童相談所が来る予定になっていたため、顔などの目立つところには暴力を加えませんでした。
 午後7時50分ごろ、児童相談所の担当者が訪問し、李被告とお兄ちゃん、順子ちゃんと面会しました。「子どもがなつかず、泣きだしたり、わがままを言ったりする」と相談したところ、「最初はおとなしくしているが、慣れてくるに従い愛情を確認するために、わざと里親を困らせる行動をとることはよくある。大目に見てあげてほしい」と言われました。
 李被告は、この面接で、虐待が児童相談所にばれてしまうのではないかという緊張感で、大きな疲労感を感じました。
午後11時ころ、順子ちゃんが大声で泣きだしたため、トイレだと思い、トイレにつれていったところ泣きやまなかったため、トイレで顔を叩きました。叩きだすと止まらなくなり、30分ほど暴力は続きました。

 翌2日、お昼ころに順子ちゃんが泣きだし、「トイレに行きたい」と言ったため、トイレに連れていったところ、さらに大声で泣きだしたため、暴力を加えました。
 その後、お昼を食べさせましたが、夕食は食べずに寝ていました。そこで、午後11時ころ、夕食を食べさせようと起こし、トイレに連れていったところ、再び泣きだしたため、孫の手を使って暴力を加えました。夫は3日午前0時ころ帰宅しましたが、酔っていたため、すぐに寝てしまいました。
 順子ちゃんに夕食を取らせていましたが、順子ちゃんがウンチしたいと言ったため、トイレに連れていきましたが、トイレ内で泣きだし、あやしても泣き続けるばかりでウンチをしませんでした。李被告はいらだたしさを募らせ、順子ちゃんを力の限り平手で5、6回叩きました。順子ちゃんは叩かれた勢いでトイレの壁に頭を打ちつけました。このような暴行がしばらく続き、最後に頭を床に打ちつけ、激しく泣き、急に泣きやみ動かなくなりました。
 順子ちゃんの意識が無くなったため、洗面所でお湯をかけましたが、意識が戻りませんでした。
夫を起こし、順子ちゃんを布団に寝かしつけましたが、意識が戻らなかったため、119番通報をしました。順子ちゃんは、運ばれた先の病院で11月3日午前2時2分ころ、急性硬膜下血腫で亡くなりました。
順子ちゃんの死亡を確認した医師が、全身に新旧織り交ぜたアザを確認し、警察に通報し、李被告が認めたため、午前4時30分、傷害致死の容疑で緊急逮捕されました。

 検察の冒頭陳述について、弁護士は、すべて同意しました。
検察側の証拠提出の後、弁護側は心神耗弱を含めた情状鑑定を裁判官にお願いし、夫の証人尋問を求めました。

 15分の休廷の後、夫の証人尋問が始まりました。以下弁護士の質問に対する回答を要約しました。

 「妻とは韓国で知り合い、その後結婚し10年間、夫婦円満に暮らしました。妻は昔気質で、家の中のことは夫にさせるべきではないと考えていました。家庭的で、やさしく、自分にはすぎた妻でありました。性格は、内向的で引っ込み思案、はにかみやで、そのくせ周りに対して配慮する性格でした。子どもが欲しかったが、不妊が原因で出来ませんでした。よその子どもを見て、心を痛めて泣いていました。韓国では、夫が日本人であるため、養子をもらうことが出来ませんでした。(法的には未確認とのこと)
日本で父親の事業を手伝うことになりました。自分はいやでしたが、妻が父母の話は、子として援助しなければならないと話し、日本に帰ることになりました。日本に来てから、ボランティアの日本語学校に通いましたが、親しく話すような友人は出来ませんでした。自分と家族以外は親しく話す人はいませんでした。
 海外生活が長く、日本の知り合いが少ないため、仕事は不安定で、大きな負担であり、ほとんど外に出ていました。家のことは妻に任せっきりで、妻はほとんど一人で家にいました。一日に何度も寂しいと会社に電話がありました。日本に来て二ヶ月頃、胃潰瘍、十二指腸炎になりました。環境の変化、内向的性格もあったと思うが、一人なので寂しさが心の負担だったと思います。精神的に弱く、外部の影響を受けやすいタイプだと思います。
日本に来てからも、子どもが欲しいという夫婦の気持ちは変わらず、一年ほど経った頃里親になることを話し合いました、
 児童相談所の面接では、日本語が日常会話程度であること、韓国籍であることが問題であるか自分から聞いたが、『それよりも母と子の心のつながり、スキンシップが大切』と言われました。
里親として認定された当初は、1歳くらいの女の子を希望していました。養子にして、自分たちの子どもとして育てるつもりでした。1年半の間、子どもの話はありませんでしたが、必ずしも女の子でなくてもいいと希望を変えました。女の子でも、男の子でも、自分の子どもとして充分に尽くせば、同じじゃないかという気持ちに変わっていきました。
 施設の子どもを一日里親として受け入れていましたが、妻は、それはもう喜び、子どもを可愛がりました。2泊3日の短い期間でしたが、2泊で帰さなければいけないのをさらに延長していました。

 2001年9月、正式に里子の話が来ました。1年半以上話が無く、半ばあきらめていたので夫婦で非常に喜びました。特別養子縁組前提の話でした。妻は早く会いたいという気持ちでいっぱいで、早く面会を希望していました。男の子の状況について児童相談所から説明はありました。実の父母が育てる気持ちがない、家庭の複雑さもあって里親に出したい。妹もいると聞いていました。しかも、児童相談所としては二人一緒に見てもらう方針で2家庭にトライしましたが、うまくいきませんでした。今後は一人ずつでもいいから里親に出したいと方針を変更しました。
 2001年12月19日に正式に男の子を委託されました。乳児院で面会し、会うだけ、おもちゃで遊び、その後数回の外泊を繰り返しました。妻は、非常に心から喜んでいて、里子とか養子ではなく、本当に自分の子どもとして一生懸命に育てていました。前よりも、表情が明るくなりました。前は、自分の職場に電話をかけて来ましたが、男の子が来てからは無くなりました。一日に一回、私から電話するくらいでした。妻の寂しさが無くなってきました。
 男の子は、おとなしく、心優しく、「お母さん大変だね」と思いやりのある子どもでした。3歳で思いやりがあって、とてもいい子だと思いました。帰ってくると、外へ散歩に行った、デパートに行ったなどと、楽しそうに話していました。男の子が言うことを聞かなかったのは、家族3人で出かけ、楽しく遊んで帰ってきたとき、もっと遊びたいと泣いたことくらいでした。男の子は大変だと、2、3回言っていましたが、深刻ではありませんでした。大変だけど、喜んで可愛がっていました。
 女の子については、いずれどこかに養子に出すと聞いていました。兄と妹なので、もし、妹を養子に出す段になったら、自分たちに連絡して欲しいとお願いしました。小さい子の育児の経験は無いので、大変なのは推測していました。だから、受けるとかではなく、まず連絡して欲しいといいました。
女の子については、概略を伺っていました。彼女は言葉が少なく、専門家の検査によると、同年代の子どもに比べ、1年発達が遅れ、言語障害の状況でした。今後どうなるか一切わからないという話を聞きました。」

 ここで、時間切れとなり、次回再度、証人尋問を行うことになりました。
第2回公判は、宇都宮地方裁判所で、3月18日(火)午後2時半から5時に行われます。

 傍聴しての感想です。ご主人の印象は、通訳がしやすいように、ゆっくりと区切ってしゃべることや、丁寧な話しぶりに、誠実な人柄を感じました。李被告についても、ご主人の証言から、子どもが大好きでたまらない様子が伺え、心優しい方だと思いました。検察の冒頭陳述やマスコミ報道だけでは見えない姿が見えてきました。子どもがいない夫婦が、子どもの委託を受けて、たまたま育てにくい大変な子どもであったため、起きた悲劇のような印象を受けました。生後すぐに乳児院に入れられ、3歳まで、特定の大人との愛着形成が無かった順子ちゃんの様子に、我が家の委託当時のつらさが重なり、とても他人事とは思えませんでした。愛着形成の難しい子どもを受け、孤立した育児の中で、とうとう一線を越えてしまった李被告に、ひょっとしたら、我が家も…と思うと、何ともやるせない気持ちになりました。

2003/2/22 sido